何が違うのか

存在(<存在>という視点の設定という出来事)を畏敬し、それに随順し、それと調和し、いわばそこに包まれて生きることと、その<存在>をことさらに<それはなんであるか>と問うこととは、まったく違う‥。

「そのように問うとき、すでにあの始原の調和は破れ、問う者はもはや原始の出来事のうちに包み込まれていることはできない。こうして<叡知>との<調和>がそれへの<欲求>、それへの<愛>に変わり、<叡知を愛すること>が<愛知=哲学>に変わってしまう。‥ハイデガーは、このプラトンアリストテレスによる<哲学>の樹立を「偉大なはじまりの終焉」と見る。」(木田元『わたしの哲学入門』,p.191)

 

それを対象化して見るとき、それに対する構え、或いは特別な定点を占めることが出来る、視点としての能動性を有する主体が生まれてしまうからである。この主体こそ自然を操作し支配する者ランボーが否定する近代の宿痾としての主観にほかならない。

 

「「脱構築」もまた、メタレヴェルの視点を要請する。そして主体がその語る位置をメタレヴェルに繰り上げるとき、下位のレヴェルはそっくり一網打尽にされてしまう。メタレヴェルに語るということの欲望は、所有の欲望にほかならない。」(斎藤環『文脈病』,p.394)

    下位のレヴェルをそっくり「一網打尽」にしてしまうということ

 

本来一体であったものが視点という特権的な立ち位置、働きかけの主体という能動性を獲得してしまい、自分の中で生起する世界にただ驚きをもって眺めるといった完全な受動性の内に留まることは出来ないということであろう。

 

どうして主体という視点を獲得するだけで客体に対する優位を主張できるのか、正にその態度が傲慢であり、思い上がりなのである。