「苦難との遭遇に対し、人はそれを克服することを、つまり、作品化することを要求されるだろう」

片山文保、『自我と欲動』、2015年3月、明星大学研究紀要ー人文学部 第51号から
              (以下引用)
 癌患者の妻の挿話。余命半年と宣告された五十代男性の妻が、夫の解熱剤が効かないと看護師に訴える。看護師は懇切丁寧に説明するが、妻は同じ訴えを一週間くり返す。看護師は嫌気がさし、ナースステーションでもクレーマーではないかと問題になる。

>>そんなある日、ベテランの医師が回診に訪れたとき、やはりその奥さんが、「どうして、この薬を使わなきゃならないんですか?」とくってかかった。ところがその医師はひと言も説明はせずに、「奥さん、辛いねぇ」と言ったのだそうだ。奥さんはその場では泣き崩れたが、翌日から二度とその質問はしなくなった。<<(平田オリザ、『わかりあえないこと』、講談社新書、2012、p.179)

 医者の言葉は、アリストテレス的な意味での「無条件の愛」に位置づけられるだろう。つまり、この愛はあらゆる「コンテクスト」を超えている。ラカン的に言えば、S1の位置に[‥]ある。妻はその場で泣き崩れたが、翌日には夫の死の運命を受け入れていた。つまり、それまで直面しながらも拒絶していた欲動の切迫を受容するに至った。その切っ掛けになったのが医師の、自我のレベルを超えた無条件の、すなわち、無コンテクストの、アリストテレス的な「愛」の言葉である。[‥]

 作品化の契機となるのは言葉、シニフィアンである。医師の発した愛の言葉が、妻の切迫した生の欲動・ラメラを[‥]枠付けしたのである。妻は、今後、夫の死を(つまり、自分の死を)そこに枠づけた(欲動拘束した)言葉を、人生の密かな、しかし確かな中枢として生きていくだろう。その人生、人格が作品(おそらく演劇作品)なのである。自我自体が一つの作品である。[‥]欲動の場が枠づけられることと自我が枠づけられることは、枠は一つしかないのだから同義なのである。欲動と自我は一つの枠の内外の関係にある。従って、欲動の場を枠づけることが一つの作品をもたらすのであれば、その作品は作者自身である。人格とは主体がラメラの切迫を受けて構築した、そしていつも構築しなおさなければならない作品である。
                (引用終わり)

そもそも欲動とは何か?それは神話的な存在であり、仕事を進めていく上に一瞬といえども欲動から目を放すわけにいかないが、そうかと言ってそれを見定めているという自信は全くない(Freud)、極めて捉えにくい問題であるとしている。一方人間は、自己に切迫する欲動を、ある形式のもとに「他者Autreの欲望」として捉えている。つまり、在
・不在を繰り返す、もはや一体ではない、母の形象のもとに。