「存在・神学」を主体における断層面として考えて見る(1)

「コゼレクによれば、経験には各人がみずからなしたことや、他者の事績で直接・間接的に知りえたことが、時系列的に整序されずに層をなしてたくわえられている。いずれの部分にもランダムにアクセス可能なものとして、それは「空間」という三次元的な比喩がふさわしい。」

「他方、予期においては、いまだ実現されていない事柄が展望されている。その事柄の成就・挫折もしくは変容によって新たな経験が生み出され、それまでの予期が新たな予期に取って代わられるのだから、「地平」という比喩があてはまる。思弁的歴史哲学のように過去と未来を超越的な視点から鳥瞰するなら、両者いずれも特定の内容に充填された同等なものであることになろうが、そのつどいまにそくして見るなら、未来は未了のものとして現実的内容を欠いており、過去は不確定な要素があるにしてもひとまず特定の内容に充填されている。つまり両者はそれぞれ異なった存在様式をもち、不当で非対称的なものである。」(鹿島徹『危機における歴史の思考』,pp.89-90)

 

基本構造として過去の経験・記憶の断片である意識が、時系列で時間化され物語化(整序)されるためには、その都度「「予期の地平」からかえりみられることによって新たな光のもと照らしだされる」ことが必要である。「予期の地平のほうも、過去からの飛躍や断絶をともないながら、おおかたはこれまでの経験に依拠して成立を見る。両者が形成するこの相互依存と分離、つまりは緊張の関係のもとでひとは歴史を認識し、かつ歴史的に行為している。」(同,p.90)

「存在・神学」における断層とは、経験的存在を一つの全体にまとめあげるメタの視点の不在という事態それ自体のことである。ベンヤミンは近代の終末において人間が経験した事態、もはや経験が何も語ってくれることがなくなった状況を次のように表現している。

 

「まだ鉄道馬車で学校に通った世代が、いま放り出されて、雲以外には、そしてその雲の下の―すべてを破壊する濁流や爆発の力の場のただ中にある―ちっぽけでもろい人間の身体以外には、何ひとつ変貌しなかったものとてない風景のなかに立っていた。」(ベンヤミン『物語作者』,ちくま学術文庫版)

 

この状況こそはジュリアン・ジェインズが『神々の沈黙』で描く、く二分心>の声がもはや聞こえなくなった時になぞらえれことが出来るのかもしれない。