「綜合とは内容に従えば自然支配にひとしい」

「≪・・・われらは前の方をもうしろの方をも/見ようとしない、波の動きに身をゆだねて、/海に浮かんでゆらぐ小舟に乗っているように。≫

・・・それにしても最後の三行は、静かな侘しさをたたえてかすかに揺いでいるような音調において比類ない。

アドルノはこれを解釈して、前の方を見ないのは抽象的なユートピアを求めることが許されないからであり、後ろを見ないのは、崩れ去ったものはもはや取り返しがつかないと自覚しているからだという。

「・・・「波の動きに身をゆだねて・・・Uns wiegen lassen, wie / Auf schwankem Kahne der See.」を、「綜合を断念し、純粋な受動性に身を委ね、現在を完全に満たそうとする意向」にひとしいというのは、疑いもない批評的明察の勝利である。

「すべての綜合は純粋な現在に逆らって、過去と未来への関係として、前方と後方への関係として生ずる」とさらにいわれている。「綜合とは内容に従えば自然支配にひとしい」ともいわれる。・・・・

「自然支配が自然に頽落し、暴力的な人為を通じて成立した調和、綜合、統一は、すべてその虚妄の相を暴露される、そうした局面における否定の論法の鋭さに比して、ではその虚妄を克服するためにいかなる肯定的な要素が求められるかについて、アドルノの説く所はやはり明確とはいえない。自然支配の傲慢を悟った精神が、みずから自然と同化することによって宥和が成就されるといっても、その宥和が単なる原初の野蛮状態を招くだけではないのか、といった疑念は拭いがたい。それはパンタクシスが、また連続を無視した現在への固執が、ただ無機的に散乱した言葉の断片の累々たる光景だけを現出するのではないか(アドルノは、ヘルダーリンは、サミュエル・ベケットの「無意味な調書的文書」に到るプロセスを開始しているといっている)、と危惧されるのと同じことである。しかしそうしたことを考えても、否定の光のもとで見られたヘルダーリン像が、夕日を浴びた嶮峻の頂のように突兀として迫ってくるのは否定し得ないのである。」

「「ベートーヴェンの晩年様式」についてアドルノは語っている。

≪晩年のベートーヴェンは同時に主観的とも客観的とも呼ばれる。客観的なのは脆くひび割れた風景であり、主観的なのは、この風景が、それに照らされてのみ燃え輝く光である。彼は主観客観双方の調和的な綜合を生ぜしめない。彼はそれらを、分裂の力として、時の中で引き裂き、永遠のためにそれらを保存しようとするのだ。≫

おそらくヘルダーリンの風景も、これと同じ風景なのである。

(川村二郎『アレゴリーの織物』,pp.272-74)