ゲーテのデモーニッシュdämonischなもの

「この<デモーニッシュなもの>の概念をもってゲーテは、その自伝作品の最期の章を書き出している。

「この伝記的な報告を進めるなかで、子供が、少年が、青年が、それぞれに異なった道をたどって、超感性的なものに近づこうとした様をつぶさに見てきた。初めは心の向くままに、自然の宗教に目をやり、次には愛情をもって既成の宗教につながり、さらに自分自身のうちに集中することによって己の力を試し、そして最後に、普遍的な信仰に欣然として帰依したのであった。これらの宗教のはざまをあちらこちらさまよい、探し求め、見回していたとき、彼は、それらの宗教のどれにも属してはいないらしいものに少なからず出会った。そして彼は、その途方もないもの、捉えがたいものからは考えを他に逸らせた方がいいのだと、段々にわかってくるように思った。―彼は自然のうちに、生命のある自然にも生命のない自然にも、魂のある自然にも魂のない自然にも、ただ矛盾した姿でのみ顕現し、それゆえいかなる概念をもってしても、ましてやひとつの言葉ではとうてい捉えられないあるものを発見できるように思った。それは非理性的に見えたから神的なものではなく、悟性をもたなかったから人間的なものでもなかった。善意あるものだったから悪魔的なものではなく、しばしば他人の不幸を喜ぶ風であったから天使のようでもなく、それはなんらの首尾一貫性も表していなかったから偶然に等しく、連関を暗示していたから神の摂理にも似ていた。私たちを限定づけているどんなものにも、このものは浸透することができるようであり、私たちの存在の必要不可欠な諸要素を思うままに処理すると見えた。それは時間を凝縮し、空間を拡大した。それはひたすら不可能なことだけを楽しみ、可能なことは蔑んで目もくれぬ風だった。―この存在は他のあらゆるものの間に介入して、それらを分離したり結合したりするように思われたが、これを私は、古代の人びとやこれに似たものを認知した例にならい、デモーニッシュと呼んだ。私はこの恐ろしい存在から逃れようとした」。〔ゲーテ『詩と真実』第四部第二〇章〕」

ベンヤミンゲーテの「親和力」』浅井健二郎訳,ちくま学芸文庫,pp87-88)