大阪維新ハラスメント事例

 

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維新の連中の言動はやるべきことをやらない、サボタージュすることで成り立っている。何をやるべきか自信がない、信念がないから、虚勢を張ってやらなくていいことを辻褄合わせでやるのである。万博・カジノというカラ景気だけのはったりイベント、政令指定市権限を自分から放棄する都構想・・・バカバカしい

 

「名を歪めてしまうと、我々は自らの世界に生じる事態についての正しい像を構成できなくなってしまう。(ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』) そうなると、世界に生じた問題に対処しているつもりでいるのに、実際には歪んだ名に従って捏造した像を構成し、その像に対処してしまう。これでは実際に起きていることには対処できなくなる。このような人間の集団は、全く機能しない。そればかりか、異常な像を相互に構成しあって、異常な行動を繰り返し、それを正当化するために更に名を歪め、異常な像を捏造し、という形で、暴走を始めてしまう。」(安冨歩『生きるための論語ちくま新書,p.138)

 

おそらくこれが、現在の日本で起きている<安倍的・維新的なもの>に代表される様々な現象の正体なのであろう。論語を、古代中国の氏族制社会の崩壊後に必死になって新しい秩序の在り方を模索した人間の思想と考える安冨歩の論は、我々の時代の歪みを正確に描き出している。

世界を記号操作する

1 近代社会において「優秀さ」とは、記号操作に長けているということ
 多数で、多様で、相互作用する、生成、変化、消滅する<世界>を記号化し操作する能力
 =記号で出来てない<世界>を、単一化し、単純化し、適当な因果対応をつけながら
  記号に置き換え、操作する(「ペラペラしゃべったり、字で書いたり」)

 

 =<世界>にそのまま関わるのではなく、<世界>を記号群書き換え、記号を操作して、操作した結果に基づいて<世界>に働きかける

 

2 操作の対象となった<世界>に対する働きかけ(思い込み・能動性)は往々にして愚かな結果を生じさせる。なぜなら<世界>はそもそも記号で出来ているわけでないから。
 (「どこかで襤褸がでる。襤褸が出たことをさらなる記号操作を使って誤魔化すことで事態はさらに悪化する。」

「存在・神学」を主体における断層面として考えて見る(2)

人間が生きる営みにおいて、「経験」と「予期」という契機が働いているには違いない。

「過去」を「経験の空間」、「未来」を「予期の地平」とし、それぞれに「存在」と「神学」対応させることとする。(ラインハルト・コゼレクの表現)

       存在        ・      神学

   過去 経験の累積・記憶        未来 予期の地平・希望

     具体的内容              実質を欠いた方向性

             「現在」(時系列に整序された物語)

 

「神学」の場所に「進歩」という観念を置くことは、デタラメという世界(「存在」・「経験」)を、現在において「改変」し、未来において「調和・統合」しうるものとして幻想・予期することを意味する。

「存在」は「現在」において「神学」と重ね合わされ、寓意的に解釈されるだけで、現実的に救済しようとすることは回避されねばならない。つまり救済は予感に留まらなければならない。(偶像崇拝の禁止)

人間の営みとしての「存在・神学」は、断層のまま「現在」という緊張関係に留まり続けなければならない。

「存在・神学」を主体における断層面として考えて見る(1)

「コゼレクによれば、経験には各人がみずからなしたことや、他者の事績で直接・間接的に知りえたことが、時系列的に整序されずに層をなしてたくわえられている。いずれの部分にもランダムにアクセス可能なものとして、それは「空間」という三次元的な比喩がふさわしい。」

「他方、予期においては、いまだ実現されていない事柄が展望されている。その事柄の成就・挫折もしくは変容によって新たな経験が生み出され、それまでの予期が新たな予期に取って代わられるのだから、「地平」という比喩があてはまる。思弁的歴史哲学のように過去と未来を超越的な視点から鳥瞰するなら、両者いずれも特定の内容に充填された同等なものであることになろうが、そのつどいまにそくして見るなら、未来は未了のものとして現実的内容を欠いており、過去は不確定な要素があるにしてもひとまず特定の内容に充填されている。つまり両者はそれぞれ異なった存在様式をもち、不当で非対称的なものである。」(鹿島徹『危機における歴史の思考』,pp.89-90)

 

基本構造として過去の経験・記憶の断片である意識が、時系列で時間化され物語化(整序)されるためには、その都度「「予期の地平」からかえりみられることによって新たな光のもと照らしだされる」ことが必要である。「予期の地平のほうも、過去からの飛躍や断絶をともないながら、おおかたはこれまでの経験に依拠して成立を見る。両者が形成するこの相互依存と分離、つまりは緊張の関係のもとでひとは歴史を認識し、かつ歴史的に行為している。」(同,p.90)

「存在・神学」における断層とは、経験的存在を一つの全体にまとめあげるメタの視点の不在という事態それ自体のことである。ベンヤミンは近代の終末において人間が経験した事態、もはや経験が何も語ってくれることがなくなった状況を次のように表現している。

 

「まだ鉄道馬車で学校に通った世代が、いま放り出されて、雲以外には、そしてその雲の下の―すべてを破壊する濁流や爆発の力の場のただ中にある―ちっぽけでもろい人間の身体以外には、何ひとつ変貌しなかったものとてない風景のなかに立っていた。」(ベンヤミン『物語作者』,ちくま学術文庫版)

 

この状況こそはジュリアン・ジェインズが『神々の沈黙』で描く、く二分心>の声がもはや聞こえなくなった時になぞらえれことが出来るのかもしれない。

 

<物>が対象化されるということ

①共同作業のための合図としての音声言語

 共同・協同・協働

②シンボルとしての言葉

 言葉を獲得したとき「与えられた刺激や刺激群に直接反応するだけでなく、その刺激群を<物>として対象化できるようになる。」

 

 言葉がコミュニケーションの手段として使用される日常生活の場面では、「シンボルとして形成されたはずの言葉が、ただ交換されるだけの記号に堕してしまう。われわれにはじめて<物>を経験させ、<世界>を開いてくれた言葉の原初的機能、つまり「まことのことば」が失われるのだ。」(『道の手帳 木田元』,p.117)

  <物>が見渡せるメタの視点、それが対象として<世界>に表れるように見える地平・位置に立つことが出来るということ、そして<物>をそれが見えたように語るということ。

<物>は言葉によって(durch)語られるのか、言葉において(in)語られるのか。どちらにしても<物質的なもの>ではないのか、道具的でないとすれば<媒質>であり、言葉は道具ですらない。どうにも出来ない<物質的なもの>である。

 

 小林秀雄の一生は、ある意味で、言葉とのたたかいであった。言葉が、われわれにはどうにもできない<物質的なもの>だと気づくことで、彼は一生を閉じたといえるかもしれない。(中村 昇「幻の『小林秀雄ハイデガー』」河出書房新社『道の手帳 木田元』,2014年,p.89)

何が違うのか

存在(<存在>という視点の設定という出来事)を畏敬し、それに随順し、それと調和し、いわばそこに包まれて生きることと、その<存在>をことさらに<それはなんであるか>と問うこととは、まったく違う‥。

「そのように問うとき、すでにあの始原の調和は破れ、問う者はもはや原始の出来事のうちに包み込まれていることはできない。こうして<叡知>との<調和>がそれへの<欲求>、それへの<愛>に変わり、<叡知を愛すること>が<愛知=哲学>に変わってしまう。‥ハイデガーは、このプラトンアリストテレスによる<哲学>の樹立を「偉大なはじまりの終焉」と見る。」(木田元『わたしの哲学入門』,p.191)

 

それを対象化して見るとき、それに対する構え、或いは特別な定点を占めることが出来る、視点としての能動性を有する主体が生まれてしまうからである。この主体こそ自然を操作し支配する者ランボーが否定する近代の宿痾としての主観にほかならない。

 

「「脱構築」もまた、メタレヴェルの視点を要請する。そして主体がその語る位置をメタレヴェルに繰り上げるとき、下位のレヴェルはそっくり一網打尽にされてしまう。メタレヴェルに語るということの欲望は、所有の欲望にほかならない。」(斎藤環『文脈病』,p.394)

    下位のレヴェルをそっくり「一網打尽」にしてしまうということ

 

本来一体であったものが視点という特権的な立ち位置、働きかけの主体という能動性を獲得してしまい、自分の中で生起する世界にただ驚きをもって眺めるといった完全な受動性の内に留まることは出来ないということであろう。

 

どうして主体という視点を獲得するだけで客体に対する優位を主張できるのか、正にその態度が傲慢であり、思い上がりなのである。

ではアドルノはキルケゴールにいかなる意義を見出すのか。

それは‥絶対的な宗教性の意味を覚醒させた点にではなく、むしろ主体性の形而上学というドイツ観念論(から実存哲学に至る伝統)の自己崩壊を体現し、そこに含まれている神話的なものが、じつは歴史的なもの(乗り越え可能なもの)であることを示した点に求められる。では、乗り越えの道はどこにあるのか。それは「犠牲にされた自然」を回復させる道、「客体一般に対する思想のかかわりを対象とする」「美的なものの構成」のうちにある。こうしてアドルノキルケゴール自身のうちに、主体性の弁証法とは個別の「自然との宥和の弁証法」「具体的なイメージによって世界を変革しようとする唯物論の萌芽」を読み取っている。」(徳永恂『現代思想の断層』,p173)

 

アドルノから見れば、キルケゴールは‥イデオロギーの深淵の上に浮かぶ実存というという仮象の内部を明視しながらも、深淵を透察することなく、信仰への決断に逃避した‥しかしアドルノが提出する美的なものにおける「自然との宥和」という希望も、それがポジティブに描かれるかぎり、どこまでこのイメージを脱しきっているか。危うきに遊ぶ名手の手練に息をのむ想いがする。」(同,p174)

 

仮象としての現実、イデオロギーとは「社会的に必要な仮象」、美的な態度のうちに幾重にも社会によって媒介された現実が直接に与えられる。