<事実存在(実存)>か、<本質存在>かではなく

どちらが優先するかではなく、根源的に一元論的存在

<事実存在>・Existentia

Leibnitz 『単子論』

Kant 自由「何の原因もなしに新たに出来事の系列をはじめる能力」、因果律は現象界に関して隈なく成り立つが、物自体の世界には及ばない。道徳的実践の場面では物自体としての私が物自体としての他者に関わる。二元論的であるがどこかで根源的同一性を自覚していたはず。フランス革命の進行に合わせて関心は科学的認識による自然支配から理想社会の実現へ、認識主体から実践主体へ、(『わたしの哲学入門』,p.316)

Schelling 非合理な<事実>(positum)<positiv>‥神が定め<pono>たもうたこと、人間はそれがどんなに非合理であっても受け入れるしかない<事実>、非合理な悪や悲惨事、根源的な<神の根底>‥神(=理性)の内なる自然、生きて生成する自然、<意欲ウオレン>を本領とし、それにより生動する自然、生命衝動

Kierkegaard 「肉体の棘」身体的障害、家族の死、父の罪過、

それ自身に生成消滅の原理を有し、現れ出て、世界に場を占め、やがて消え去っていく、あるがままに在る、生成変化する自然、盲目的意志、力、存在するか存在しないかという事実存在、対して人間は自然の脅威のなすがまま、絶対的受動性、自分の中で、自分において生成する力として自然を感じる

Nietzsche 『悲劇の誕生』<ディオニュソス的原理>

                 vs.

<本質存在>・Essentia

Kant 現象界、純粋理性の世界、認識に際し発動する悟性カテゴリー

Hegel 理性は主観が発動するカテゴリー形式を駆使して自然界(現象界)の立法者であるが、その支配は物自体には及ばない。現象界を形式的側面で支配しても、材料は物自体に仰がなければならなかった。倫理的・宗教的・芸術的・技術的・政治的・社会的活動など主観の一般的活動により人間精神に異他的だったものも精神の形式のうちに取り込まれていき、精神を制限するものがなくなっていく。

対象となる世界もまた静的自然界でなく、民族の歴史的生成過程にある生成する歴史的世界。主観としての人間精神が活動のありとあらゆるカテゴリーを発動して歴史的世界を全面的に創造するという事態、精神が精神に成っていく生成の運動、反省ではなく、自分自身を外に投げ出して、外的世界に働きかけ、<労働>、労働の主体としての精神

近代理性主義の完成、以降は技術として猛威をふるうことになる。

形而上学的思考様式>は<物質的自然観>と連動

<形相エイドス、制作物において具体化される前のその構造、設計図のようなもの、<それは何であるか>の答えを強いられ、労働の対象とされ、能動的に改変されうる自然、制作にあたって作られるべきものを先取りした<イデア>に対し材料としての無機質な自然<質料ヒュレー>、素材=物質マテーリアに貶められた自然はいかようにも加工できる、科学技術の操作対象となる自然存在、人間によって切り縮められ、掌の上にある自然、人間にとって都合のよい限りでの存在、答えが出てくる限りでの存在=被制作性、作られて使用可能な状態で目の前にあること>

ハイデガーの存在概念2(整理)

『それは何であるか――哲学とは』(1955年)

存在(<存在>という視点の設定という出来事)を畏敬し、それに随順し、それと調和し、いわばそこに包まれて生きることと、その<存在>をことさらに<それはなんであるか>と問うこととは、まったく違う‥。」

●すべての存在者を存在者たらしめているその<存在とは何か>という問い

「そのように問うとき、‥始原の調和は破れ、問う者はもはや始原の出来事のうちに包みこまれていることはできない。こうして<叡知>への<調和>がそれへの<欲求オレクシス>、それへの<愛エロース>に変わり、<叡知を愛すること>が<愛知=哲学>に変わってしまう。」

「たしかに自分のうちで起こってはいるのだが、けっして自分が意識的におこなっているわけではない<存在>という視点の設定という出来事に、自分を超えた力を感じ、それを畏敬し、そのような意味でそれに驚き、そこに開かれてくる<あるとされるあらゆるもの>のうちにいわば慎ましく包み込まれてあるということと、その出来事をいわば対象化し、それに<なんであるか>と問いかけることとは違う。」(同,p.191)

<それはなんであるか>という問いは、古来<本質存在への問い>と呼ばれてきた。」(同,p.192)

<それ自身に生成消滅の原理を有し、現れ出て、世界に場を占め、やがて消え去っていく、あるがままに在る、生成変化する自然、盲目的意志、力、存在するか存在しないかという事実存在、対して人間は自然の脅威のなすがまま、絶対的受動性、自分の中で、自分において生成する力として自然を感じる>

                 vs.

<形相エイドス、制作物において具体化される前のその構造、設計図のようなもの、<それは何であるか>の答えを強いられ、労働の対象とされ、能動的に改変されうる自然、制作にあたって作られるべきものを先取りした<イデア>に対し材料としての無機質な自然<質料ヒュレー>、科学技術の操作対象となる自然存在、人間によって切り縮められ、掌の上にある自然、人間にとって都合のよい限りでの存在、答えが出てくる限りでの存在=被制作性の対比>

 

ハイデガーの存在概念(整理)

①Vorsokratiker

「このばあい、<存在=被制作性>とは異なる存在概念として彼[Heidigger]の念頭にあったのが‥<存在=生成>と見る存在概念で‥すべてのものを自然[フュシス]と見、<存在する>ということは<成ること[フュエスタイ]>だと見ていた<ソクラテス以前の思想家たち>の存在概念と言ってもよい。(木田元『わたしの哲学入門』,p.183) 

「ピュシスが絶対的真理であり、ノモスはそれと合致するかぎりで真になるような相対的な真理‥ソフィストたちの時代になると‥絶対的な真理としてのピュシスではなく、相対的な真理としてのノモスで満足すべきだと‥「人間は万物の尺度」[プロタゴラス]‥やがてソフィストたちは、‥人間的相対主義をさらに徹底‥絶対的真理は「存在しないし、存在しても知りえないし、知りえても他人に伝えられない」(ゴルギアス)‥一種のニヒリズムにまで至りつく‥」(木田元須田朗編著『基礎講座 哲学』,pp.56-58)

<すべてを成るものと見る現実肯定の風潮>

②「ソクラテスプラトンの哲学‥ソフィストによっていわば棚上げされてしまったピュシスをそのまま復権するのではなく、むしろノモスそれ自身を絶対的な真理にまで高めるというもの‥」(同,p.58)

<祖国アテナイの腐敗堕落を前に、正義の理想イデアを目指して作為、作り上げていくべきもの、ただし近代的意味での製造などではなく、「ギリシア人にとって<存在する>ということが、無限定な隠蔽態から限定された形エイドスのうちに立ち現れてくることなのだとすれば、<制作ポイエーシス>もそうした<立ち現れ>の一様態にほかならない」(木田元『わたしの哲学入門』,p.214)>

プラトンアリストテレス以来、古代・中世・近代にわたる伝統的存在論においては一貫して<存在=被制作性=現前性>という存在概念がその根底に据えられていること、ただし、古代存在論があくまで人間の制作行為に定位していたのに、中世存在論においては、それが神の世界創造の働きに解釈され、さらに近代ではもっと多様に‥たとえばカントにおいては主観の認識作業としてとらえなおされており、歪曲が重ねられることになったことが明らかにされる。」

アリストテレスにとっては、「<存在する[ザイン]>ということの意味は<作られてある[ヘアゲシュテルトザイン]>」(木田元『わたしの哲学入門』,p.182) 

<何らかの意向・志向・原型の元に作られて、今現に在ること>

認識論的現象学から存在論現象学

ヘラクレイトスパルメニデスの思索<叡知ト・ソフォンを愛するフィレインこと>‥叡知は「ヘン・パンタ」、通常「万物は一つである」と訳されるが‥「一なるもの(存在)がすべてのを存在者としてあらしめる」と訳すべきである‥「われわれ人間のもとで<存在>という視点が設定されることによって、その視野のうちに集められる[レゲイン]すべてのものが<存在者>として、<あるとされるあらゆるもの>として見られることになる、という事態を、ヘラクレイトスは<ヘン・パンタ>という簡素な言葉で言い表そうとしていたのだと、‥ハイデガーは主張‥」(同,p.189)

<その地平線上に、在るとされるものが現れ出ること>

 

「一方、‥「存在者が存在のうちに集められているということ、存在の輝きのうちに存在者が現れているということ」、つまりおのれのもとで<存在>という視点の設定がおこなわれ、すべてのものが<存在者>として見られていること、「まさしくこのことがギリシア人を驚かした」のであり、この驚きがギリシア人を思索に駆り立てた‥」

「当初その思索は、おのれのうちで生起してはいるが、おのれがおこなっているわけではないその出来事をひたすら畏敬し、それに調和し随順することでしかなかった。」

ペルシャ戦争に勝利‥アテナイを中心に興隆‥<古典時代>に入ると、何にでももっともらしい説明を与えようとするソフィスト的知性によって、この驚くべきことさえもが当然きわまりないことにされようとした。」(同,p.190)

存在(<存在>という視点の設定という出来事)を畏敬し、それに随順し、それと調和し、いわばそこに包まれて生きることと、その<存在>をことさらに<それはなんであるか>と問うこととは、まったく違う‥。」(同,p.191)

 

③Gebsattelの治療

 

幻聴の起源

「‥言葉の幻聴は、行動を統制する方法としての自然淘汰によって進化した言語理解の一副作用だった‥。

「ある男が、居住地を流れる川のはるか上流に、魚を捕るためのやなを仕掛けるように命じられたとする。もし男に意識がなければ、当然状況を<物語化>することも、それによってアナログの、<私>を空間化された時間の中で心に抱き、十分に結果を想像することもできない。それでは、彼はどのようにするのだろうか。言葉だけが、午後中かかるこの仕事を彼に続けさせられるのだと思う。更新世中期の人間は、自分が何をしているのか忘れてしまうだろう。だが言葉を話す人間には、思い出させてくれる言語がある。自分で言葉を反復するのかもしれないが、それには一種の意志が必要で、その時代の人間に意志があったとは思えない。となれば、「内なる」声という幻聴が、何をするのか繰り返し教えていたと考えたほうがよさそうだ。

「‥学習によって習得した行動で、しかも欲求が満たされて完結することのないものは、何か外的要因によって維持してやらねばならない。その役目を果たすのが幻聴の声だ。

「同様に、意識を持たぬ古代の人間は道具を作るとき、「より鋭く」と幻聴の声で命令されるおかげで、一人で仕事を続けることができた。あるいは、「より細かく」という意味の幻覚の言葉を聞いた人間は、種子を石臼で挽いて粉にすることができた。人類史上のまさにこの時点で、仕事をやり抜くという淘汰圧のもと、言葉を声に出す役割が脳の片側だけに委ねられ、もう一方の側がその役割から解放された。そして、人間は後者の側で幻覚を聞き、仕事をやり抜けるようになった。」(pp.165-166)

淘汰圧~出来たものだけが生き残った

脳の組織のされ方(インストール)

「<二分心>の時代には、ウェルニッケ野に相当する右(劣位)半球の領域には精密な<二分心>の機能があったが、発達の初期段階で<二分心>が生まれてもその発達が阻害されるような心理的再組織化が1000年にわたって行われ、この領域は異なる機能を持つようになった‥。

ここで論じてきた例は‥脳の組織に機能は絶対的なものではなく、発達のプログラムが異なれば組織構造も異なったものになりうることを示唆している。」(同,p.155)

「<二分心>とは社会統制の一形態であり、そのおかげで人類は小さな狩猟採集集団から、大きな農耕生活共同体へと移行できた。<二分心>はそれを統制する神々とともに、言語進化の最終段階として生まれた。」(同,p.156)

「普通一匹一匹は、群れ全体の行動パターンを外れる場合には、自分の基本的生理機能の欲求にさえ応じない。例えば、喉が渇いたヒヒは、群れから離れて水を探し求めたりはしない。‥喉の渇きは、群れの行動パターンの範囲内でのみ癒される。」(同,p.157)

二つの部分から成る脳

「何十億という神経細胞が複雑な経験を片側で処理し、非常に小さな交連を通して反対側に結果を送らなくてはならない。そのためには何らかの暗号、つまり非常に複雑な処理を前交連の数少ないニューロンを通して伝達できるような形に圧縮することを可能にする、何らかの方法が必要になってくる。そして、動物の神経系の進化において、人間の言語に勝る暗号がかってあっただろうか。それゆえ、私たちのモデルの、このより説得力のあるほうの形では、幻聴が言葉として現れるのは、言語が複雑な皮質での処理を脳の一方からもう一方へと伝えるのに最も効果的な手段であるためだとする。」(ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』,p.133)

「訓戒的な体験を融合するのは右半球の機能で、右半球でウェルニッケ野に相当する領域の興奮が、神々の声を引き起こしている‥」(同,p.134)

「神々というのは訓戒的な経験の融合物であり、個人が与えられたもろもろの命令が混ざり合ってできたものだった。」(同,p.135)

「この刺激[右側頭葉への]刺激による経験のほとんどにおいて重要なのは、引き起こされた現象の「他者性」だ。それは自己の行動や言葉というよりも、自己と対峙したものなのだ。‥ほぼすべての事例で被験者は受動的で、働きかけを受けるだけであり、<二分心>の人間が、聞こえてくる声の働きかけを受けていたのとまさに同じだ。」(同,p.140)

「神々のおもな機能は、新しい状況下でどう行動するかを考え、指示することだ。神々は問題を見極め、そのときの状況や目的に沿って行動を準備する。その結果、複雑な<二分心>文明が生まれ、作付けの時期や収穫の時期の判断、有用なものの選り分け、諸事を大がかりな構想の中にまとめ上げること、左j半球の中にある言語的・分析的領域にいる神経学上の人格に指令を与えることなど、本質的に異なる様々な部分を総括していた。したがって今日、右半球に残っている機能は組織化に関するもので、文明社会における経験を選別し、まとめ、個々の人間に何をすればよいのか「告げ」うるパターンに変えることと考えられる。『イーリアス』や旧約聖書、そのほか古代の文献に登場する神々からの様々なお告げを精読すると、それが裏づけられる。過去や未来の異なる出来事が選び出され、分類され、しばしば比喩の統合を伴いながら新しい形にまとめられる。それゆえこの機能は右半球の特徴と呼ぶべきだろう。」(同,p.147)

「綜合とは内容に従えば自然支配にひとしい」

「≪・・・われらは前の方をもうしろの方をも/見ようとしない、波の動きに身をゆだねて、/海に浮かんでゆらぐ小舟に乗っているように。≫

・・・それにしても最後の三行は、静かな侘しさをたたえてかすかに揺いでいるような音調において比類ない。

アドルノはこれを解釈して、前の方を見ないのは抽象的なユートピアを求めることが許されないからであり、後ろを見ないのは、崩れ去ったものはもはや取り返しがつかないと自覚しているからだという。

「・・・「波の動きに身をゆだねて・・・Uns wiegen lassen, wie / Auf schwankem Kahne der See.」を、「綜合を断念し、純粋な受動性に身を委ね、現在を完全に満たそうとする意向」にひとしいというのは、疑いもない批評的明察の勝利である。

「すべての綜合は純粋な現在に逆らって、過去と未来への関係として、前方と後方への関係として生ずる」とさらにいわれている。「綜合とは内容に従えば自然支配にひとしい」ともいわれる。・・・・

「自然支配が自然に頽落し、暴力的な人為を通じて成立した調和、綜合、統一は、すべてその虚妄の相を暴露される、そうした局面における否定の論法の鋭さに比して、ではその虚妄を克服するためにいかなる肯定的な要素が求められるかについて、アドルノの説く所はやはり明確とはいえない。自然支配の傲慢を悟った精神が、みずから自然と同化することによって宥和が成就されるといっても、その宥和が単なる原初の野蛮状態を招くだけではないのか、といった疑念は拭いがたい。それはパンタクシスが、また連続を無視した現在への固執が、ただ無機的に散乱した言葉の断片の累々たる光景だけを現出するのではないか(アドルノは、ヘルダーリンは、サミュエル・ベケットの「無意味な調書的文書」に到るプロセスを開始しているといっている)、と危惧されるのと同じことである。しかしそうしたことを考えても、否定の光のもとで見られたヘルダーリン像が、夕日を浴びた嶮峻の頂のように突兀として迫ってくるのは否定し得ないのである。」

「「ベートーヴェンの晩年様式」についてアドルノは語っている。

≪晩年のベートーヴェンは同時に主観的とも客観的とも呼ばれる。客観的なのは脆くひび割れた風景であり、主観的なのは、この風景が、それに照らされてのみ燃え輝く光である。彼は主観客観双方の調和的な綜合を生ぜしめない。彼はそれらを、分裂の力として、時の中で引き裂き、永遠のためにそれらを保存しようとするのだ。≫

おそらくヘルダーリンの風景も、これと同じ風景なのである。

(川村二郎『アレゴリーの織物』,pp.272-74)