ハイデガーの存在概念(整理)

①Vorsokratiker

「このばあい、<存在=被制作性>とは異なる存在概念として彼[Heidigger]の念頭にあったのが‥<存在=生成>と見る存在概念で‥すべてのものを自然[フュシス]と見、<存在する>ということは<成ること[フュエスタイ]>だと見ていた<ソクラテス以前の思想家たち>の存在概念と言ってもよい。(木田元『わたしの哲学入門』,p.183) 

「ピュシスが絶対的真理であり、ノモスはそれと合致するかぎりで真になるような相対的な真理‥ソフィストたちの時代になると‥絶対的な真理としてのピュシスではなく、相対的な真理としてのノモスで満足すべきだと‥「人間は万物の尺度」[プロタゴラス]‥やがてソフィストたちは、‥人間的相対主義をさらに徹底‥絶対的真理は「存在しないし、存在しても知りえないし、知りえても他人に伝えられない」(ゴルギアス)‥一種のニヒリズムにまで至りつく‥」(木田元須田朗編著『基礎講座 哲学』,pp.56-58)

<すべてを成るものと見る現実肯定の風潮>

②「ソクラテスプラトンの哲学‥ソフィストによっていわば棚上げされてしまったピュシスをそのまま復権するのではなく、むしろノモスそれ自身を絶対的な真理にまで高めるというもの‥」(同,p.58)

<祖国アテナイの腐敗堕落を前に、正義の理想イデアを目指して作為、作り上げていくべきもの、ただし近代的意味での製造などではなく、「ギリシア人にとって<存在する>ということが、無限定な隠蔽態から限定された形エイドスのうちに立ち現れてくることなのだとすれば、<制作ポイエーシス>もそうした<立ち現れ>の一様態にほかならない」(木田元『わたしの哲学入門』,p.214)>

プラトンアリストテレス以来、古代・中世・近代にわたる伝統的存在論においては一貫して<存在=被制作性=現前性>という存在概念がその根底に据えられていること、ただし、古代存在論があくまで人間の制作行為に定位していたのに、中世存在論においては、それが神の世界創造の働きに解釈され、さらに近代ではもっと多様に‥たとえばカントにおいては主観の認識作業としてとらえなおされており、歪曲が重ねられることになったことが明らかにされる。」

アリストテレスにとっては、「<存在する[ザイン]>ということの意味は<作られてある[ヘアゲシュテルトザイン]>」(木田元『わたしの哲学入門』,p.182) 

<何らかの意向・志向・原型の元に作られて、今現に在ること>

認識論的現象学から存在論現象学

ヘラクレイトスパルメニデスの思索<叡知ト・ソフォンを愛するフィレインこと>‥叡知は「ヘン・パンタ」、通常「万物は一つである」と訳されるが‥「一なるもの(存在)がすべてのを存在者としてあらしめる」と訳すべきである‥「われわれ人間のもとで<存在>という視点が設定されることによって、その視野のうちに集められる[レゲイン]すべてのものが<存在者>として、<あるとされるあらゆるもの>として見られることになる、という事態を、ヘラクレイトスは<ヘン・パンタ>という簡素な言葉で言い表そうとしていたのだと、‥ハイデガーは主張‥」(同,p.189)

<その地平線上に、在るとされるものが現れ出ること>

 

「一方、‥「存在者が存在のうちに集められているということ、存在の輝きのうちに存在者が現れているということ」、つまりおのれのもとで<存在>という視点の設定がおこなわれ、すべてのものが<存在者>として見られていること、「まさしくこのことがギリシア人を驚かした」のであり、この驚きがギリシア人を思索に駆り立てた‥」

「当初その思索は、おのれのうちで生起してはいるが、おのれがおこなっているわけではないその出来事をひたすら畏敬し、それに調和し随順することでしかなかった。」

ペルシャ戦争に勝利‥アテナイを中心に興隆‥<古典時代>に入ると、何にでももっともらしい説明を与えようとするソフィスト的知性によって、この驚くべきことさえもが当然きわまりないことにされようとした。」(同,p.190)

存在(<存在>という視点の設定という出来事)を畏敬し、それに随順し、それと調和し、いわばそこに包まれて生きることと、その<存在>をことさらに<それはなんであるか>と問うこととは、まったく違う‥。」(同,p.191)

 

③Gebsattelの治療