ハイデガーの存在概念2(整理)

『それは何であるか――哲学とは』(1955年)

存在(<存在>という視点の設定という出来事)を畏敬し、それに随順し、それと調和し、いわばそこに包まれて生きることと、その<存在>をことさらに<それはなんであるか>と問うこととは、まったく違う‥。」

●すべての存在者を存在者たらしめているその<存在とは何か>という問い

「そのように問うとき、‥始原の調和は破れ、問う者はもはや始原の出来事のうちに包みこまれていることはできない。こうして<叡知>への<調和>がそれへの<欲求オレクシス>、それへの<愛エロース>に変わり、<叡知を愛すること>が<愛知=哲学>に変わってしまう。」

「たしかに自分のうちで起こってはいるのだが、けっして自分が意識的におこなっているわけではない<存在>という視点の設定という出来事に、自分を超えた力を感じ、それを畏敬し、そのような意味でそれに驚き、そこに開かれてくる<あるとされるあらゆるもの>のうちにいわば慎ましく包み込まれてあるということと、その出来事をいわば対象化し、それに<なんであるか>と問いかけることとは違う。」(同,p.191)

<それはなんであるか>という問いは、古来<本質存在への問い>と呼ばれてきた。」(同,p.192)

<それ自身に生成消滅の原理を有し、現れ出て、世界に場を占め、やがて消え去っていく、あるがままに在る、生成変化する自然、盲目的意志、力、存在するか存在しないかという事実存在、対して人間は自然の脅威のなすがまま、絶対的受動性、自分の中で、自分において生成する力として自然を感じる>

                 vs.

<形相エイドス、制作物において具体化される前のその構造、設計図のようなもの、<それは何であるか>の答えを強いられ、労働の対象とされ、能動的に改変されうる自然、制作にあたって作られるべきものを先取りした<イデア>に対し材料としての無機質な自然<質料ヒュレー>、科学技術の操作対象となる自然存在、人間によって切り縮められ、掌の上にある自然、人間にとって都合のよい限りでの存在、答えが出てくる限りでの存在=被制作性の対比>