<他者>が欲望しているということはそもそもあり得るのだろうか?(『フロイト=ラカン』p114)

その宛先として現れることで、主体が表象されることに貢献するような騙さない<他者>がある。‥この<他者>は‥解をあらかじめ知っているがゆえに宛先の資格を得ているのではない。<他者>はただ、主体が解を求める道行きそのものを可能とする。<他者>が保証するのは、言表行為の方であり、言表内容の方ではないのだ。そこではいわば答えが用意されていないにもかかわらず、あたかも答えを引き出すことが可能であるかのごとくにするための、一つの仕掛けが必要となる。それが「汝は何を欲しているのか」と、答えの不在を問いの形式に変換する仕掛け、すなわち欲望である。欲望の機能が、<他者>における無知と、消失点としての主体の存在欠如とを、解かれるべき問いの形で重ね合わせ止揚するのだ。
                 (上尾真道『ラカン 真理のパトス』,p78)

①生まれて間もない赤ん坊は、言葉に分節化されない叫びをあげる、つまり泣くことくらいしできない。
②鳴き声を聞いた母は、叫びの中に志向性の萌芽を感じ取り、その意味を読み取ろうとする。「おっぱいがほしいのかしら」、「おむつが濡れたのかしら」。「熱があるのかしら」、「むずかっているだけかも」・・わけのわからぬ感覚に翻弄されたまま漂流していたものが、母親の想像力によって幼児の心として立ち上がる。見当違いばかりというのも困るが、重要なのは想像する内容ではなく、想像の前提となる赤ん坊の中に「心がある」と母が想定していることである。
③幼児は自分が経験していたことをあとから知る(事後的に)。乳を与えられて「空腹」だったとはじめてわかるのである。
④母の想像力と応答が乳児の中に起こった出来事に「空腹」という名を与えることに成功したとしても取り残されものがある。それは名づけることに回収できない何かである。                  (内海健『さまよえる自己』)
     
<他者>による言表行為があり、取りあえずの「応え」はあったのだが、「答え」は名づけられないもの(「答えの不在」)として取り残されるのである。