自己の自己性

●外部の他者による自己規定
エリクソンの「自我同一性」の概念は「私というものを即自的に外部の枠組によって捉えた規定である。・・そのような自我同一性は必然的に他者による認知を必要とする。」(木村敏『自己と時間』,p.76) 

●内部の他者による自己規定
「私が私であるという場合、そこにはすでに私としての私という形で、ある種の外部性と間接性がはいり込んでくる。ここで二度出てくる「私」は決して無意味な同語反復ではないし、同じ語を二度言わなければ私の自分自身との同一性を表現できないのは、単なる言語表現の不如意さのみからくることでもない。そうではなくて実際に、自己の自己性は二つの互いに異なった私のあいだの同一としてのみ成立しうるのである。自己の自己性は、いわば差異の同一、同一の差異としてしか現れてこない。その場合、一方の私はもう一方の私にとって他者の立場に立ちうることになり、自己の自己性についてのこの内部的他者による認知ということも当然言えることになる。自己の自己性とは、言いかえれば自己自身による自己認知のことだといってよい。」(p.77)

●主語的自己と自己の述語作用
「私が一つだとか二つだとかいう発想は、すでに私ということものとして思い浮かべている。私とはいかなる仕方であれものとみなすことことができない。・・ことを純粋なことの状態のままで意識に思い浮かべてこれを言語化することは本来不可能である。ことものの姿を借りた比喩としてしか言語化できない。正確にいえば、自己の自己性を「私」という語で呼ぶこと自体がすでに比喩的な行為である。・・自己性がもともと差異であると同時に同一でもあるような、それ自身の内部に矛盾と緊張をはらんだ事態であるからこそ、それはこのような比喩形態をとるにいたったのであろう。」(p.79)