話す私と存在する私の関係

■話す存在自体が確かに存在しているということは、言語外のものによって支えられなければならない。‥無力な受難として、他者の語らいを受けているだけの存在は、同時に、私の言表の真実性を支える現実存在でもある。そうした存在は、過去における他者の語らいの中に埋もれている。(新宮一成ラカン精神分析』,p122)
■「無意識は、大文字の他者の語らいである」‥いずれにせよ話されている対象は私である。そういう話の対象としての存在を私は享受している。‥こうして太初において、私が何であるかについて語っていた他者は、今も私の内において、無意識として語り続けている。(同,p136)
■誕生よりも前から、家族の中で伝えられてきた神話のような構造‥の中で、主体の位置はいわば無根拠に、偶然によって「指定」されている。

      「わたしは絶望の産物なのだ」(Sibylle Lacan『ある父親』,p15)

赤ん坊の未だ言語に分節化されていない叫び、鳴き声に母親が応答して「お腹が空いたのかしら」と想像して乳を含ませる。子供の欲求と母親の応答、名づけが一致する保証はどこにも存在しない。主体の欲求と他者の応答が言語の構造を取らなければならない以上、そこには解消できない深淵が存在する。

その起源的関係の構造を欲望と呼ぶ。欲望とは他者の欲望であり、主体はこの他者の欲望を自らの欲望として生きることになる。主体と他者の関係の構造は、受動でも能動でもない、謂わば「中動態的事態」だといえる。國分功一郎『中動態の世界』ではこのことが「意思と責任」の問題として展開されている。

■我々は成長の過程で,いつの間にかこういう存在であることをやめて、他者の語らいの側に入ってしまっている。今醒めた自分のしゃべっている言葉は、実はかっての他者の語らいの断片でしかない。(新宮一成ラカン精神分析』,p126)
■他者の語らいにおいて、私のことが語られてはいる。しかしその語らいは、意味として私の中に回収できない‥私が他者の語らいの中でどのようなものとして置かれているのかは、私には言えない。‥それでも他者は、私について語る。まさにその語り続ける他者の、語る欲望こそが、始原において私の受け取る生存の意味となる。他者が私をどういうものとして語っているのかを言うことは不可能であるが、しかし他者が私ついての語らいをやめないということそのものを、私は私が在るという意味で受け取る。(同,p127)
■他者の語らいは、主体に、意味ではなく欲望を伝える。したがって、私は何であるかという問いへの答えは、「私とは、語らいつつある他者の欲望の対象である」という形で、与えられたことになる。(同,p128)
■「主体は、対象aとして、すなわち、生命体として設立されたとき自分が大文字の他者にとってそれであったようなものとして、そしてまた、この世にやってくることを欲せられたものとしてあるいは欲せられなかった者として、再び生まれ直すべく呼びかけられている。‥」(「ダニエル・ラガーシュの報告への論評」1961年)
 生まれ直した彼が、もし他者の欲望によって自分自身を所望し、手に入れるならば、彼は他者の欲望のあり方を、自分の欲望として取り込むことになるだろう。その他者の欲望が良いものであるか悪いものであるかは主体には分からない。その欲望の意味は空である。しかし、その欲望によって欲せられているかどうかということにしたがって、我々は我々自身を意識する者となり、話す主体として生まれ直すのである。良かれ悪しかれ大文字の他者の欲望を軸とするのでなければ、自分について話す主体は生成できない。(同,pp128-9)

■意味を欠くことを本来の特徴とするはずの他者の欲望(同,p131)
■話す私の真理性を支えて存在する私は、「寸断された身体」として、他者の無根拠な欲望を、ただ受け止めるしかない。私には、他者の欲望の意味が分からない。しかし私がそれを受けない限りは私の考えや言表の真理性に何の支えもなくなるので、私はひそかに無意味性に耐える。(同,p131)