ゲーテのデモーニッシュdämonischなもの

「この<デモーニッシュなもの>の概念をもってゲーテは、その自伝作品の最期の章を書き出している。

「この伝記的な報告を進めるなかで、子供が、少年が、青年が、それぞれに異なった道をたどって、超感性的なものに近づこうとした様をつぶさに見てきた。初めは心の向くままに、自然の宗教に目をやり、次には愛情をもって既成の宗教につながり、さらに自分自身のうちに集中することによって己の力を試し、そして最後に、普遍的な信仰に欣然として帰依したのであった。これらの宗教のはざまをあちらこちらさまよい、探し求め、見回していたとき、彼は、それらの宗教のどれにも属してはいないらしいものに少なからず出会った。そして彼は、その途方もないもの、捉えがたいものからは考えを他に逸らせた方がいいのだと、段々にわかってくるように思った。―彼は自然のうちに、生命のある自然にも生命のない自然にも、魂のある自然にも魂のない自然にも、ただ矛盾した姿でのみ顕現し、それゆえいかなる概念をもってしても、ましてやひとつの言葉ではとうてい捉えられないあるものを発見できるように思った。それは非理性的に見えたから神的なものではなく、悟性をもたなかったから人間的なものでもなかった。善意あるものだったから悪魔的なものではなく、しばしば他人の不幸を喜ぶ風であったから天使のようでもなく、それはなんらの首尾一貫性も表していなかったから偶然に等しく、連関を暗示していたから神の摂理にも似ていた。私たちを限定づけているどんなものにも、このものは浸透することができるようであり、私たちの存在の必要不可欠な諸要素を思うままに処理すると見えた。それは時間を凝縮し、空間を拡大した。それはひたすら不可能なことだけを楽しみ、可能なことは蔑んで目もくれぬ風だった。―この存在は他のあらゆるものの間に介入して、それらを分離したり結合したりするように思われたが、これを私は、古代の人びとやこれに似たものを認知した例にならい、デモーニッシュと呼んだ。私はこの恐ろしい存在から逃れようとした」。〔ゲーテ『詩と真実』第四部第二〇章〕」

ベンヤミンゲーテの「親和力」』浅井健二郎訳,ちくま学芸文庫,pp87-88)

エロス的欲動と死の欲動は対称的な二つの欲動か?

●蚊居肢(http://kaie14.blogspot.com/2016/01/blog-post_27.html
疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 )
90年以降の「市場原理主義」の時代の標語は、生産性、競争性、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーション等々だろう。これら「経済のディスクール」が席捲する時代は、「エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性」という人間のタナトス的性格が支配する時代、すなわち弱肉強食の社会ダーウィニズムの時代である、《事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから》(柄谷行人)、《今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である》(中井久夫
ネオリベ的エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性(悪の陳腐さ) 
人間のタナトス的性格(死の欲動)、融合を目指すエロス的欲動による個の消滅の誘惑から逃れ、個人としての能動性の確保しようとする
●愛他主義・協調・連帯(善の陳腐さ)
<大文字の母>との融合を目指すエロス的欲動、究極的に個体の消滅<死>を目差す、依存性、受動性である。

生命的な欲動が内に向かうか、外に向かうか、融合的か攻撃的か
外なる対象にむけて、関わり続け、与え続ける志向
内なる欠如を表象し、外なる対象によって欠如を埋めさせようとする志向
エロス、タナトスともに独り占めの志向はあるように思われる。
人は与えられる存在から、成長し与える存在になる。この反転は社会的な付け替えによって起きるのか?(共同体の存続条件)

パースPeirceの四分円(quadrant)

●ある存在するものについての普遍的命題の真理性は、それに反するものが一つでも存在することで否定される(「すべての人間は死ぬ」は真である)が、存在を前提としない普遍的命題では、真偽を判定できない(「すべての火星人は死ぬ」)。

すべての・いくつかの(普遍/特殊)
印は(主題/主語)
垂直(述語/属性)
である・でない(肯定/否定)

●右図について
1 すべての印は垂直である。
2 印がない。
3 すべての印は斜線である。
4 垂直線と斜線が混ざっている。


1と2→(A)の場合、「すべての印は垂直である」(普遍的肯定命題)
 (但し2において印そのものが存在しない)
2と3→(E)の場合、「いかなる印も垂直でない」(普遍的否定命題)
 (但し2において印そのものが存在しない)
●(A)と(E)の普遍的命題においては、主語/主題が存在するかどうかは問題にならない。
1と4→(I)「いくつかの印は垂直である」(特殊肯定命題)
4と3→(O)「いくつかの印は垂直でない」(特殊否定命題)
●(I)と(O)の特殊命題においては、主語/主題は存在する。

生物は自己言及的な存在である。

キルケゴールによれば、決められた行動であっても自ら選んで行動する場合でも、一歩引いたところに身を置くことによって人間は「自己」になる。そうした行動に対する自分自身の関係を評価することができる限りにおいて、人間が「自己」になる。つまり、「自己」は、彼が存在する場と、その場における彼の存在、そしてその二つを認識する彼という三項関係を前提とする。(同,p89)

虚空から一体どのようにして意味が生じてくるのか。

150億年前のビックバン〜不規則なゆらぎ〜物質の集塊の存在理由〜集まる原因・発端

結局のところ、何もない、という考えは人の心をはなはだ落ち着かなくさせる。何もないとの考えは、それを考えること自体が困難であり、科学は全てこれから逃れようと必死になっている。・・・要するに、私たちはこの、何もないところから、何かを見つけ出そうとしている。何も虚空への嫌悪は全ての人の心に根深く宿っている。(同,p20)

世界を認識する最初の規則

ベイトソンの考えを簡潔に言えば、音声言語では何かがないことを、つまり「〜がない」という否定を表現できるようになったことが身振り手振りとは決定的に違う点だ、ということである。(ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』,pp24-25)

ウィルデン(Anthony Wilden)は・・「〜ない」という単語はもともとは、単にAまたはBを選ぶ行為の規則そのものだということを示した。しかし、このAまたはBを選ぶ行為は人間が行ったり考えたりする全ての事柄に暗黙のうちに含まれているものであり、かなり根源的な規則である。なぜなら、区分することによってのみ私たちは人生に立ち向かっていく希望を持つことができる。・・認識の過程においていつでも、本質的に同一のことが行われている。ある要素(コーヒー、木、サイレン)は他の全てのもの(背景)から区分され、私たちは形態(ゲシュタルト)を作りだす。(同,p27)

Bでは「なく」Aだ。非Aでは「なく」Aだ。Aが、非Aの地の上に図として出現する。
時間的に、非Aの措定=Aの措定である。

自我・・・自己とその像との分裂

この分裂は人間の欲求の鍵をも握っている。その分離を再びもとの一体のものにまとめ上げたいという熱望こそが、人生そのものである。・・・この分裂に由来する欲求こそが、世界に意味を与え、私たちに意味を求めさせるものだ。・・・意味はそこにあるもの自体によって生じるのではなく、外面的には既にあるものの間に発生する分裂、内面的には他の何かとの関係によって生じるのである。私たちのもとの一体に戻ろうとする本能的な欲求は、この自分自身と自分の像との分裂から生じる。この分裂を取り除きたいという全体論的な夢は、喜びに満ちた死への夢であり、全ての意味の終わりへの夢である。
          (ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』,pp26-27)