ではアドルノはキルケゴールにいかなる意義を見出すのか。

それは‥絶対的な宗教性の意味を覚醒させた点にではなく、むしろ主体性の形而上学というドイツ観念論(から実存哲学に至る伝統)の自己崩壊を体現し、そこに含まれている神話的なものが、じつは歴史的なもの(乗り越え可能なもの)であることを示した点に求められる。では、乗り越えの道はどこにあるのか。それは「犠牲にされた自然」を回復させる道、「客体一般に対する思想のかかわりを対象とする」「美的なものの構成」のうちにある。こうしてアドルノキルケゴール自身のうちに、主体性の弁証法とは個別の「自然との宥和の弁証法」「具体的なイメージによって世界を変革しようとする唯物論の萌芽」を読み取っている。」(徳永恂『現代思想の断層』,p173)

 

アドルノから見れば、キルケゴールは‥イデオロギーの深淵の上に浮かぶ実存というという仮象の内部を明視しながらも、深淵を透察することなく、信仰への決断に逃避した‥しかしアドルノが提出する美的なものにおける「自然との宥和」という希望も、それがポジティブに描かれるかぎり、どこまでこのイメージを脱しきっているか。危うきに遊ぶ名手の手練に息をのむ想いがする。」(同,p174)

 

仮象としての現実、イデオロギーとは「社会的に必要な仮象」、美的な態度のうちに幾重にも社会によって媒介された現実が直接に与えられる。